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田中氏逝去

 平成26年(2014年)7月23日

 

尾長41田中.jpg

7月23日に田中氏が突然亡くなりました。ちょうどひと月前の6月23日に64才になったばかりでした。

20年来の釣り友達であり、仕事上でも深い付き合いがありました。元々は、今から20年前に当時父親

とよく釣りに行っていた富山県入善町吉原の釣りエサ屋に格安で土地を貸してもらいバンガローを建て

た頃にさかのぼります。色々な人達と釣りに行き楽しんでいましたが、だんだんと気心の知れた仲間ば

かりで行くようになってきました。そのメンバーが中心となり10名ほどの釣り会を作り、そのメンバーの

1人としてして田中さんにも参加してもらってからの付き合いとなります。富山県の方言で新鮮という意味

をきときとと言います。それでクラブ名も「きときと会」とつけました。私は洋紙卸、田中さんは和紙卸の仕

事柄、だんだんと仕事上の付き合いもできるようになりました。日本海の冬は荒れます。海岸から30mか

ら50m沖に消波ブロック(テトラ)が積んであります。離岸堤と呼んで、波のきついところは、二段に置かれ

てあります。そこにボートで渡り、釣りをします。グレの30pクラスや黒鯛、ガシラ、メバルなど魚種も豊富で、

時にはハマチが回遊してきたり、アオリイカを釣ったり、ホタルイカの群れで海岸一面が埋まったりと、色々

な事がありました。富山県入善町というと黒部市の北隣となり新潟県との県境です。京都から400`はあり

ます。当然日帰りは無理であり、土曜・日曜の2日間の釣りとなります。田中さんは、月・水・金と透析をされ

ていたので、金曜の深夜や、土曜の朝一番出発で、日曜夜帰宅のコースとなります。今ではその頃のメンバー

も50代60代となっていますが、15年20年前はまだみなさん若く、休みを目一杯使って遊んでました。土曜

の夜は温泉に行ったり、バンガローに帰ってから海岸で夜釣りしようと出かけたり、宴会したりして大いに釣行

を楽しんでおりました。そのうちに大きいグレが釣りたくなり、グレ釣りのメッカ紀東の尾鷲の磯に通うようにな

りました。いつしか、富山へも足が遠のき、尾鷲の磯釣り一辺倒になりました。気がつくと、田中さんと二人で

通うことがほとんどになっていました。釣りが好きで好きでたまらない性分で、磯にあがって私が休憩していても、

ほとんど休憩なしで立ちっぱなしでウキを見続けていました。恐らくこの20年の間、奥さんの次に私が一緒にいた

時間が多かったと思います。釣り場は、富山も尾鷲も遠方です。長い車中の時間にさまざまな話をします。

もちろん釣りの話が多いですが、近年は、商売の話やまた目茶苦茶に可愛がっていた二人の孫の話をしている時

のうれしそうな顔が忘れられません。人と人との付き合いは、本当に難しいものです。夫婦でもある程度の距離は

必要であると思います。よく親しき仲にも礼儀ありと言われますが、親しくなればなるほど間合いのある付き合い方

をしてくれていた様に思います。私も随分と商売上の悩みも聞いてもらい、友達でもあり良き兄貴のような存在でした。

山根さんより引き継いでわずか一年でこのような事になり、茫然としている中、独立する時に応援してもらいましたと

山口和紙さんが、田中さんの得意先を守っていきたいと手を挙げていただきました。それでは、私も微力ながら協力

しますとなり、なんとか和紙卸「田なか」を守っていこうと現在動いております。日々バタバタとしている中、「酒井君、

今週行こうや」といつものように軽く右手を挙げて事務所に入ってくるような気がしてしかたありません。本当に最高の

釣りパートナーでした。また私が田中さんの所に逝った時には、思う存分一緒に釣りに行きたいと思います。 

 合掌。

 

お知らせ(訃報)

 

平成23年(2011年)2月5日

遺影.JPG 

弊社の創業者で、前代表取締役 室 康之が、2月5日午後6時37分に逝去いたしました。
昭和10年11月生まれの75歳でした。

平成20年9月より入退院を繰り返しつつ約2年半に及ぶ闘病生活でした。
亡くなる数日前になって奥様から、入院時に既に重症の肺癌を患っており、
放置すれば1ヵ月、抗癌剤治療すれば1年の余命と診断された旨はじめて聞かされました。
持ち前の体力・気力で2年半もの間頑張り続けたことに感心するばかりです。
手術できない肺癌でしたので、転移に気を配る入院生活でした。
最後の1週間前までは、頭に転移していても意識もはっきりして、食事もとっていました。
元来、相当の読書家で、何冊もベッドの脇に置き、日経新聞も隅々までよく読んでいました。
最後に頭への転移から視力が落ち、「本を読めなくなったのがつらい」とこぼしてました。
若い頃から麻雀も強く、かなりの腕前でした。出社すると徹マンでソファーでよく寝てい
ました。50歳を機にゴルフを初め、持ち前の負けん気で数々のコンペで優勝もしました。
昨年もある時見舞いに行きますと病室が空っぽで、しばらくしてスニーカーで帰って来ました。
「こうして足腰を鍛えておかなくてはゴルフにも行かれん」と上機嫌で話しておりました。
身内だけの葬儀でしたが、お棺には、特別に木だけで作られたクラブや帽子を納め、
ポロシャツにブレザーというゴルフウェアーでの旅立ちでした。
思えば30数年、公私にわたり大変お世話になったものです。釜座に会社があった当時は
近くの「にし」という居酒屋へ数えきれない程連れて行ってもらい、また木屋町
の「幹」というクラブにもその流れで幾度もご一緒しました。気分が乗ると詩吟での
「武田節」や「影を慕いて」が十八番でした。
若い頃から男前で知られていたようで、一日に二度もワイシャツを替えられるなど、
身だしなみに気を配られておりました。
病身をお見せするのをためらって、本当に身内のみでの入院、闘病生活となり、
お見舞い等をお断りすることも再々ございました。
この際改めましてお詫び申し上げます。
また、葬儀等に際しましては故人の遺志と喪主である奥様 稔子様の強い要望によって、
身内のみのお通夜・告別式となりました。
この点につきましても長い間お世話になりました紙業界の関係の方々には、
まことに失礼の段、併せてお詫び申し上げる次第でございます。
私も引継ぎましてわずか3年半しかたっておりませんが、40年もの間会社を守ってこられた
故人には只々頭の下がる思いであります。
また故人は親戚一同にあっても要として大きな存在でありました。
親類縁者の故人に対する敬意と感謝の念は今も変わりません。誰もが大きな太い柱を失った
心境にあるようです。
最後に手を握りました折、がんばれよ≠ニ握り返してくれました。
創られました会社を少しでも長く継続して行く事が、故人の遺志であり、
それがとりもなおさず私の使命であると決意しております。
ここに故人が生前頂戴いたしました皆様方のご厚情に対しまして心よりお礼申しあげます
と共に謹んでお知らせ申し上げます。 
新聞にも掲載しております様に、誠に勝手ながら ご弔意その他のお心遣いは拝辞させて
頂きますので何卒ご了承の程お願い申し上げます。        
                                                                             代表取締役 酒井 敬